2008年9月24日 (水)

少女熱

「格闘王国」というwebサイトの中の、山田隆道さんのブログが面白かった。

http://www.kakutoh.com/pc/blog/yamadatakamichi/

なんでも、ある居酒屋で超ギャル4人が「青木真也やばくね?」とか「これからはやっぱイマナーだよね」と、総合格闘家談義に花を咲かせていたという。

マジで? 魔裟斗とかじゃなくて? 読みながら最初は信じられなかったけど、自分の高校時代をよくよく考えたら、これは十分ありえるなあと思った。

私は女子高だったのだが、別の女子高に行った小学時代からの友人の岡さんは、その頃なぜか新日本プロレスにハマっていて、たまに一緒に帰る時はプロレスの話を喜々としてしていた。

制服姿で新日本の道場に足しげく通っていた岡さんは「蝶野に会えると思って行くんだけど、いつもブラック・キャットしか相手にしてくれなくて」と、ブラック・キャットさんとのツーショット写真を見せてくれたりした。

同じクラスにもプロレスファンの子がいた。彼女とはそんなに話したことはなかったが、ある日彼女の缶ペンケースに「前田日明」と思いっきりデカい字が彫られていたので、「それなんて読むの?」と聞いてみた。

「えへへ」と、クールな彼女は珍しく照れ笑いし「まえだあきら、だよ。すごい人なんだよ」と言った。それから前田日明の凄さをこんこんと説明してくれた。

私はたぶん、二人の話を聞いても「へえー」とか「そんなに好きなんだー」と気のないリアクションしかしていなかったと思う。その頃の私は、なぜか中畑清に夢中だったのだ。

中畑さんのラジオ番組に投稿が採用されて狂喜したり、地元の握手会で「燃」と大きくひと文字筆書きした大皿を中畑さんに直接プレゼントしたり、そういう不思議な行動を取っていたから、プロレスにはまるで興味が向かなかったのである。

今考えると、なぜ中畑さんだったのか、皆目見当がつかない。岡さんにしても「なんであの頃、あんなにプロレスが好きだったのか。恥ずかしい」と振り返っている。

当時はなかった言葉だけれど、思春期の一瞬だけ燃え上がった「マイブーム」。それは、トシちゃんやマッチに飽き足らない、もっと大人の世界(それが中畑?)を見たいという少女の琴線に触れ、「他の子は誰も知らない。私だけが知っている」という独占欲を満たすものだったのだろう。今の時代、それが青木真也だったりイマナーだったりするわけだ。

一瞬だけ燃え上がったとはいいながら、今でも中畑さんがテレビに出ると、ドキッとしちゃうんだけど。

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2008年3月23日 (日)

私にいじめられた上司

先日、飲み会をした。

同席したのは、私が学校を卒業してすぐに就職した「神奈川ニュース映画協会」という映像制作会社の、大先輩の方たち。

60~70代が大半だったが、みんなかつては演出家として、キャメラマン(カメラマンではないそうだ)として、映画づくりに励み、現在もあっちこっちでご活躍中なので、ひじょうに元気で、飲む、飲む。私は、彼ら諸先輩方に毎晩、毎晩、飲みに連れていかれて、酒の飲み方を教わったのだ。

じつは昨年7月にも同じ飲み会があり、半年ぶりの再会だったのだが、前回出席せず、10数年ぶりに再会した方もいた。その一人がスズキさんだ。

スズキさんは最初、私が誰だかわからなかったのだが、「松本ですよ!」というと、いきなり顔を上気させて叫んだ。

「まっちゃんかよ! 俺はこの女にさんざんいじめられたんだ!!」

映像の知識なんてまるでないまま、入社してすぐに演出家をやらされた私が、最初に組んだキャメラマンがスズキさんだった。

当時のスズキさんは60歳近くだったのだが、大病をした後だったそうで80歳ぐらいに見えた。入りたての私は大病したことなんて知らないから、「このおじいさんは大丈夫なんだろうか」と、心配しながらロケ現場に行っていた。

後で聞いたら、大丈夫も何も、スズキさんは前衛的な作品を数々手がけた名キャメラマンだったのだが、それを知らず、厚顔無恥全開で、私はスズキさんに「ああ撮れ、こう撮れ」と指図をしていたのだった。あの時、スズキさんは黙っていたけれど、きっとプライドを傷つけられたんだろう。だから、懐かしい再会もそこそこに「いじめられた!」と叫んだんだろう。

スズキさん、ごめん、ごめん。

大先輩に失礼な謝り方かもしれないが、撮影でタッグを組んでいる時は、上も下もなく真剣勝負だから、先輩というよりは同志とかライバルとか、そんな感覚なのだ。だから、30歳も歳が離れていても、「ごめん、ごめん!」のほうが、私にはしっくりくる。

スズキさんと組んだ作品はだいたい覚えているし、ロケ現場のこともありありと浮かんでくるのだが、酒が進む中、スズキさんは私がまるで覚えていないエピソードを披露してくれた。

「ちょうど今ぐらいの時期にな。まっちゃんと俺で春の風景を撮りに行ったんだよ。その時も、この女は“ちゃんと撮れてるんですか”なんて聞くんだよ。まったく生意気なヤツだよ。だから俺は、キャメラをポンポン叩きながら言ってやったんだ。“まっちゃん、大丈夫だよ。この中には春がいーっぱいつまってるから”ってな。それでもこいつは“ホントですかあ?”って疑ぐりやがる。まったく生意気なヤツだったよなあ」

キャメラの中に、春をいーっぱい詰め込んでくれていたのか。覚えてないけど、スズキさんありがとう。でも、そんなに生意気、生意気言うなって。私も若かったんだから。スズキさん、ごめん、ごめん。また飲もう!

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2008年3月18日 (火)

コングラチュレーション!

ニュージーランドのマリーさんからメールが来た。

「これからは“Dr.Speed”と呼んでね」

おお! ついに! おめでとう!

マリーさんことマリー・スピードさんは、日本女子ボクシング協会の初代会長だった人だ。99年の協会の旗揚げを手伝ったことからマリーさんと知り合い、その後、マリーさんがニュージーランドへ帰ってからも付き合いが続いている。

マリーさんとの出逢いなどについては、以前WOMEN'S BOXING NETのコラムで書かせてもらった。

マリーさんは、もう何年も前から翻訳と子育ての傍ら、大学院で研究を続けてきた。研究内容は、アジアの経済がなんちゃらかんちゃら…何回聞いても忘れてしまうが、なんだかとても難しそうなテーマで、ここ数年は論文がなかなか進まずいつも頭を悩ませているようだった。

何か手伝いたいが、テーマも覚えていられないのだから私ができることはない。「がんばれ!」「マリーさんなら大丈夫!」と、遠い日本の空から見えない旗を振るぐらいしかできなかった。

だが、ついに完成した論文に(多少の訂正を加えれば)OKが出るそうだ。つまり晴れて「博士=ドクター」になるのだ。これまでの歩みや日々の多忙さを知っているだけに、本当に嬉しい。こんなに嬉しいことって、ちょっとないというぐらい嬉しい。ここ何日かは、メールを思い出すたびにニヤニヤしっぱなしだ。

奇しくも…というわけでもないが、日本では女子ボクシングがJBC(日本ボクシングコミッション)に認可され、新たなステージを迎えた。マリーさんが会長として悪戦苦闘したあの日々から9年を経て、女子ボクシングが日の目を見ることになったのだ。

9年。

数字だけ見るとピンと来ないけれど、一人の女性が女子ボクシング協会の会長として山積する難題と格闘し、その後、恋をし、出産し、故郷に戻り、家を買い、家を買い換え、娘を幼稚園に通わせながら仕事をし、仕事をしながら大学院に通い、博士になる…9年というのはそういう年月なのだ。

同じ年月をそっくりボクシングに費やしてきた女子選手たちのことを思うと、その根気強さ、ボクシングに賭ける熱意には頭が下がるばかりだ。

と、さまざまに想いを馳せつつ、マリーさん、コングラチュレーション!

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2007年12月14日 (金)

秋のソナタ

たまたまテレビをつけたら、BSでベルイマンの『秋のソナタ』をやっていた。

ぐーっと画面の中に入り込んで見てしまった。

深夜1時。

見入っていると、電話が鳴った。母からだった。

『秋のソナタ』を見ている最中に母から電話。

なんだかゾクッとしてしまった。

『秋のソナタ』は母と娘の愛憎を描いた映画なのだ。こより糸のように愛と憎悪がねじれあい、85%ぐらい、お互いが胸の内をさらけ出し合って、傷つけあって、残りの15%はどうしても出しきれずに胸に押し込める。そういう映画として私は観た。

「母と娘の関係はこんなにも…」と絶句していたところに母の電話だ。ゾクッともする。

母の電話の内容は、まさにこれ以上説明しようがないのだが、どうでもいい話だった。

「そんなのどうでもいいから、目が覚めたのなら『秋のソナタ』見れば。今やってるから」

と言うと、母は「ああ、さっきちょっと見たけど」と言ってから数秒置いて、また続けた。

「暗いわね。あの映画。私、暗いの嫌い」

ああ、そうだった。

母の好きなのは『冬のソナタ』であって、決して『秋のソナタ』ではないのだ。ベルイマンではなくペ・ヨンジュンなのだ。わかりやすい母でよかった。

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2007年9月10日 (月)

人は完成されていく

今日は朝から70~80代の4人のおばあちゃんに電話をする仕事したんだけども。

自分的にはがんばって朝早く起きて、9時きっかりに次々と電話してみたんだけども。

誰もいなかった。

みんなすでに外出中。

昼過ぎにようやくつかまった方々に話を聞いたら、皆さん、だいたい4時半起き。9時なんてもう、夕方みたいなもんなんだな。失敗、失敗。

御婦人方との電話で印象に残ったのは、電話を切る時に必ず「こんなおばあちゃんの話を聞いてくれて、ありがとう」とお礼を言われたことと、「あなたも体に気をつけて、頑張りなさいよ」と励まされたことだ。

こういうお礼と励ましは、いつもやろうと思っても、できない。電話を切ったり、相手と別れた後に、「ちゃんと言えばよかった」と後悔し、反省し、「私は人としてまだまだだな」と思う。

それをあっさりやってのけるおばあさんたちは、私にとっては「いい人間の完成系」のように思える。人間は、一生をかけていい人間になるための修行をし、最終的にはだいたい誰でもいい人間として完成するのではないかと、ほのかな希望を持たせてくれもする。

明日は5時に起きよう。

どうしてもつかまらなかった最後の一人に、電話しないといけないから。

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2007年8月22日 (水)

幻覚じゃない

昨日も暑かった。

暑すぎて幻覚を見ているのかなと思うようなシーンに、昨日出くわした。

取材のために横浜から東横線に乗り、渋谷につき、数十メートル先の銀座線に乗り換えるため、雑踏をフラフラと歩いていた時のことだ。

向こうから、ペーターがやってきた。

ペーターというのは、18年前に私が母校の女子高に教育実習に行った時の、社会の指導教官だ。いつも夏は半ズボン、テニス部の顧問をやっていたので年中真っ黒。ボーイッシュを通り越してほとんど男に見え、しかも天然の巻き毛。「アルプスの少女ハイジ」に出てくるペーターみたいということで、そのあだ名がついた。

18年ぶりに見るペーターは、どしどしズンズンの歩き方も、白いポロシャツに半ズボンというファッションも、あの日のまま。間違いない。それでも「幻覚じゃないか?」と自分の目を疑った。きっと幻覚だと思いたかったんだと思う。18年前、なにしろ、かなりこっぴどくペーターにやられたからな。

高校時代、私は相当ひねくれ者で、すさんでもいたので、当然先生たちから要注意人物扱いをされいていた。「こんな学校、二度と来るか」と捨てゼリフを吐いて卒業したのだが、教育実習の段になって、他の学校を探すのも面倒くさいということで、母校に2週間カムバックすることにした。

もう22歳になっていたので、さすがに私も落ち着いていた。しおらしい私を見て、先生たちは皆「松本さんもすっかり丸くなって」とウキウキしながら仲間として受け入れてくれた。

だが。そのしおらしさも、残念ながら2週間続かなかった。教育実習が終盤に近づく頃、案の定、いろいろやらかし始める自分がいた。

生徒というのはいつの時代も閉塞感を抱えている生き物だ。私が受け持った1年1組の生徒たちも、「今度の一泊旅行、学校指定のダサいバッグを持っていきたくない! 好きなバッグを持っていきたい!」とブーブー文句を言っていた。

「文句だけ言ってても、物事は改善しないよ」と私は言った。「そんなに嫌なら、きちんと文書にして、先生たちに直談判しにいけばいい」とアドバイスした。その結果、生徒たちは大挙して職員室になだれ込んだ。

「誰がこんな知恵をつけたの?」と先生たちはいきり立った。私であることが判明すると、先生たちは皆、ため息をついて言った。「やっぱり松本さん、何も変わってなかったのね」

とまあ、あれやこれやをやった末、最終日には生徒たちとの別れを惜しみすぎたために、ペーターに提出する書類を出すのがすっかり遅れ、巻き毛が縮れ毛になるほどペーターを激怒させてしまった。

後日。大学に提出する実習報告書の、ペーターが書き込む所見の欄を見てみたら、筆圧の強い男勝りの文字で次のように書かれてあった。

「問題行動があまりに多すぎる。このままでは教師はおろか、どんな職業についたところで社会人失格の烙印を押されるに違いない」

正確ではないが、実際はもっと酷評だったと思う。所見を見た時は、さすがの私も落雷が直撃したようなショックを受けた。「これから社会に出る卒業生に、この仕打ちかよ!?」と、心底ビックリした。「これ、大学に提出すんの!?」と、やりきれない気持ちになった。

あれから18年が経った。

ペーターの愛のムチ(と思いたい)のお陰で、社会人としてつつがなく人生を送っている。と言いたいが、「やっぱりペーターの予言どおりになったな」と思う日もある。いずれにしろ、18年経った今でも、あの酷評が頭の片隅にチクチクと、取り出し忘れた手術針みたいに残っている。

声をかけてみようか。

肩が触れるほどの距離で通り過ぎていくペーターを目で追いながら、一瞬そう思ったが、やめた。「お久しぶりです。巻き毛に白髪が増えましたね」というところから始まって会話が続いたら、私は取材に間に合わない。

待ち合わせ時間に遅れるなんて、社会人失格だからな。

ズンズンと歩くままに揺れるペーターの背中をちょっとだけ見送って、私は小走りで銀座線の改札口へと急いだ。

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2007年8月 9日 (木)

で、あんたは会いたいの?

先日、自宅に遊びに来た母とビールを飲んだ。

ビールだと少量で高揚できる安上がりな親子だ。高揚のまま、話は私が5歳ぐらいの時に母が離婚し、消えていった元の父のことに及んだ。ゲラゲラ笑いながら話し、ひと段落したところで、母が私に聞いた。

「で、あんたは会いたいの? お父さんに」

どうだろう、と私は答えた。

もし今会うとしたら20年ぶりになる。20年前に会った時のエピソードがかなり笑えるのだが、それは置いておいて、今会いたいかと聞かれても、本当に「どうだろう」としか答えようがない。

5歳ぐらいまで、私はまるっきり物心がついていなかったので、まず思い出というものがない。その後すぐに新しい父が来て、物心がつかないまま「父」だと刷り込まれたので、「父不在=心にぽっかり穴」ということもない。また、これが重要だが、私自身に取り立てて話すべき事件(冠婚葬祭的な)が起きていない。

だから、どうだろう、なのだ。

なぜ母がそんなことを聞いたかというと、母が元の父と連絡を取る唯一の手段が、連絡先の書いてある白い手帳だったのだが、その手帳をうっかりなくしてしまったのだ。なくした瞬間に音信不通になるというのもどうかと思うが、そのうっかりが、母の中ではちょっと気がかりらしい。

「もう、死んじゃってるかしら」

母は「もう、そろそろ大河ドラマが始まるかしら」と言うのと同じトーンで言った。

「死んじゃっても、連絡来ないだろうねえ」と私は答えた。

と、母はピン!と何かをひらめいたような感じで、私をうながした。

「あんた、ホラ、調べられるでしょ。アレで」

アレがインターネットの検索機能であることはすぐに分かった。母が私のパソコンを指差したからだ。そこから、元の父のネット検索が始まった。

「藤村明」という父の名前を入れた。出てきた中からこれと思う人物をピックアップして、私が次々と母に質問を投げかける。

「お父さん、農業やってる?」「農業。農業ねえ」「じゃあ、石川県で住宅販売してる?」「石川県のどこ?」「金沢」「金沢。金沢ねえ。それよりお父さんの弟さんは強っていうの。それはどう?」「藤村強ね…強さん、俳句作ってる?」「俳句ねえ。どんな俳句?」「どんなって、それ聞いてわかるのかな」「わかるかもしれないじゃない」

ネット検索にも調べられないことがあるということを、母はどうして理解できない。だから不確かな住所だの、父の妹さんの名前だの、知りうる限りの情報を私に言う。その情報は、あまりに少ない。本当に7年間、結婚していたのか? と疑いたくなるほどに少ない。

でも、母はウンウンうなりながら、20代の初々しい主婦だった頃の記憶をかき集めている。顔がだんだん気色ばんでいく。アルコールのせいだけでは、きっとない。こんな時の母の顔を見るのが、私は好きだ。

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2007年7月 6日 (金)

平成世代特集

Cover本日発売の格闘技通信8/8号「HEISEI生まれ&育ちの時代」特集のなかで、K-1ファイターHIROYA(15歳)、キックボクサー藤鬥嘩裟(つかさ・14歳)、7.29全日本キック後楽園ホール大会でキックデビューを果たす新空手ファイター瀧谷渉太(18歳)、園山翔一(18歳)について書いた。

平成もかれこれ19年になるわけだから、平成世代がスポーツ界を席巻しても、なんら不思議ではない。びっくりするのは、彼らの両親の年齢だ。みんな40前後。がっくしくるね。でも、選手たちと話すより、お父様、お母様と話す方が、すごく楽。なんせ同世代だから。

私が15歳のときは、なにを考えていただろう。

とにかく、すごくひねくれていたのはたしかだ。社会に出て、得がたい人たちにいろいろ教えられて、なんとかここまで更正してよかった。15歳のときのひねくれていた自分を思い出すと、いつも「歳を取るってなんて素晴らしいんだろう」と思う。

取材した選手たちは、格闘技という道を選んで一所懸命頑張っていて、話を聞いていてとても清々しかったけれども、私はひねくれるということに、あの頃、あの頃なりにもんのすごく頑張っていて、それを思い出すと痛々しい。

清々しいと痛々しい。

どちらも青春そのもの。といえなくもない。

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2007年6月29日 (金)

仲間

070629_20040001_123歳から5年間、私は「神奈川ニュース映画協会」という会社にいた。映画館で上映するニュース映画の製作会社だ。

でも、今年の3月で、神奈川ニュースはニュース映画の役目が終わったということで、50年近くの歴史に幕をおろしてしまった。社会人1年生で飛び込んで、大人のイロハからすべてを教わった古巣がなくなるなんて、本当にショックだった。

神奈川ニュースでは、社員がある年齢(社外秘)に達すると、仲間内でお祝いをした。思い思いにささやかなプレゼントを持ち寄って、やんややんやと飲むだけのたわいもない会だ。

会社がなくなった翌月、私もある年齢に達した。

「マツ(神奈川ニュースの人からはこう呼ばれていた)も、大台に乗ったら祝ってやるからな」と以前から言われていたけれど、会社がなくなったからにはもう、そんな慣わしもやらないだろうな。そう思っていたら、今日、呼び出しがかかった。集合場所へ行くと、懐かしい人たちが、久しぶりに顔を揃えていた。

「マツもついに大人の仲間入りだな」プレゼントとともに、耳の痛い言葉で次々と祝福してくれた。

会社がなくなってから、ある人は別の製作会社に行き、ある人は仲間と会社を作り、ある人は飲み屋を出すべく料理の学校へ通い、ある人は就職浪人中。親より恋人より長い時間、一緒に過ごしていた人たちが、今はバラバラだ。それぞれが新しい道で、必死に人生を模索している。それでもなんとか時間を割いて集まってくれた。

二次会は、客引きに誘われるままにカラオケボックスへ行った。地下の店に下りていく途中で、一人の先輩が「あれ、ここって前に西口シネマがあったところじゃねえ?」と言った。

そういえば、ここには小さな映画館があった。そうか、ここもつぶれてしまったのか。映画会社にいたぐらいだから、みんな映画にも映画館にも愛着がある。ちょっとしんみりしながら、それでも気を取り直して、やんややんやと歌った。私の締め切りがあるのを気にして、1時間と区切りスパークしてくれた。

最後に誰かが「つぐない」を歌った。

「このタイミングでつぐない?」
とゲラゲラみんなで笑いながら、それでも大声で合唱した。
「明日は他人同士になるけれど」
の歌詞のところで、私はちょっとだけ泣けてしまった。

今、私は家に戻り、プレゼントされた目にもまぶしい黄緑色のガチャピンTシャツとガチャピントランクスに着替えて、ブログを書いている。これはこれで、なかなか着心地がいい。何より薄手の生地に似合わず、温かい。

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2007年6月24日 (日)

恥ずかしくても観る

 21dbhuahkql_aa192_                    最近よく観るビデオ、ベスト3。

1.『デンジャラス・ビューティー』

2.『ワンダとダイヤと優しい奴ら』

3.『ワーキングガール』

次点で『ハート・オブ・ウーマン』。

何度観ても面白いのは、脚本がよく練ってあるから。かしこくて、大胆な女性が大活躍して最後はハッピーエンドというのも共通している。やっぱり映画には、自分が生きられない人生や、こうなりたかった人間を求めちゃうよなぁ。

 近い将来、映画の脚本も書いてみたいと思っていて、温めているストーリーが2つある。1つは高齢化社会を鋭くえぐりつつ、全体的にはホロ苦い青春モノ。どんなモノ? という感じだが。もう1つは、現代社会の心の闇を描きながらも爆笑できる群像劇。

 どちらも最後はホロリとさせたい。

 もともと脚本がやりたくてニュース映画の会社に入ったものの、気づいたら演出をやらされていただけに、映画の脚本は「原点回帰」ともいえる。ヒマな時はうかうか寝てないで推敲しよう。そうしよう。

 

 

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